
家族のあいだで、ひとつのことが決まりました。たぶん電話で、たぶん慌ただしく。孫のうちの誰かが葬儀でひと言話すことになり、その孫があなただ、ということです。あなたは今、祖母に贈る孫からの弔辞を書かなければなりません。生まれてからずっと大好きだった人です。そして当日、あなたの前には、あなたよりも長くその人を愛してきた人たちが並びます。そのうちの二人は、あなたを育ててくれた人かもしれません。
ここに載せるのは、孫からの弔辞の例文六篇です。祖母へが五篇、祖父へが一篇。話し手は、十五歳の孫娘から四十代の孫息子まで、10代から40代の孫たちです。一篇は、三人のいとこが一緒に読むためのものです。それぞれの冒頭には声に出したときの所要時間を、それぞれのあとには、なぜその形が効くのか、どう読めばいいのかを一、二行添えました。例文のあとには、孫ならではの部分を置いています。祖母の子どもたちの前で話すこと、そして例文のひとつを自分のものにすることです。
祖母への弔辞が、孫に求めるもの
あなたは、祖母の子どもたちの前で話すことになります。そのうちの一人はあなたの母か父で、母親を亡くしたばかりです。おじやおばも、同じ列に座っています。あなたが祖母について話すことは、どれも、その人たちにとっては自分の子ども時代の話でもあり、実際そう聞こえます。それでも話してください。ただ、その人たちが失ったものと張り合うような言葉は、ひとつも入れないようにしてください。
あなたが知っているのは、おそらく祖母の最後の何十年かだけです。出会ったとき、祖母はもう祖母でした。動きはゆっくりで、当たりはやわらかく、時間はたっぷりあって、決まりごとは、祖母の子どもたちが覚えているよりずっと少ない。そんな祖母は数に入らないのではないか、三十歳の祖母を知っている人たちが後ろに座っているのに、自分が立つ資格などあるのか。そう感じてしまうのは、無理もないことです。
いとこは大勢いて、話せる枠はひとつです。孫が八人、十二人いる家でも、弔辞が八つ、十二と並ぶことはまずありません。誰が話すかという問題は、ただでさえ大変な一週間に、ちょっとした言い争いになりかねません。
一生の歩みは、訃報の文面と、祖母の子どもたちが伝えてくれます。あなたが受け持つのは、その一生のうち、祖母の家で起きた部分です。学校帰りの台所、夏休みの帰省、日曜日の電話、ほかのどこにも通用しない決まりごと。その祖母も、まぎれもなく本当の祖母でした。そしてある意味で、子どもたちにとっての母親とは別の人でした。その人のことを語れるのは孫だけで、今回、立つのはあなたです。
孫からの弔辞の例文から、いちばん近い一篇を選ぶ
ここに出てくる祖母たちは、すべて架空の人です。「おばあちゃん」や「ばあちゃん」とあるところにはご家族が実際に使っていた呼び名を、バターと砂糖をのせた食パンのところには、その方の得意だった一品を入れてください。各篇のあとの短い解説に、なぜその形が効くのかを書いておきましたので、ご自分の材料でも同じことができます。
まずは、事情がいちばん近い一篇から始めてください。ほかに何も重ならなくてもかまいません。それから、冒頭に書いた所要時間を、いただいた時間と照らし合わせます。所要時間は、人の大勢いる会場でゆっくり読み上げる速さ、一分あたり300字から350字ほどを目安にしています。ですから、ここにある弔辞の多くはおよそ三分半、三人で読むものはおよそ四分、10代の孫のものはおよそ二分です。
一分や二分の版が必要なら、短い弔辞の例文にあります。長さについての詳しい答えも、そちらにまとめました。見本からではなく白紙から書き始めたい方には、弔辞の書き方のガイドが手順をひとつずつ説明しています。そして、書こうとしているのがお母さまへの弔辞なら、母親への弔辞の例文を別のページに用意しています。
孫娘から、育ててくれた祖母へ
声に出しておよそ三分半。母が働いているあいだ、学校の送り迎えと放課後を祖母が引き受けてくれた、30代の女性から。
五歳から十二歳まで、祖母は毎日、三時十五分に校門で私を待っていてくれました。そのあとは、私がひとりで祖母の家まで歩いていくようになりました。祖母はいつも早めに来ていて、いつも同じ青いコートを着ていました。四時には、祖母の家の台所のテーブルに、ふたつのものが待っていました。牛乳を入れすぎた紅茶と、バターと砂糖をのせた食パンが一枚です。
それが、わが家のやり方でした。母は看護師で、病院の日勤に出ていて、午後はおばあちゃんの時間でした。学校のある日は、私が高校を出るまで毎日、祖母はあのテーブルで私の向かいに座って、同じことを聞きました。「まめちゃん、今日は誰が優しくしてくれた?」まめちゃんというのは私のことです。ほかの人がそう呼ぶのは、許されていませんでした。
何を習ったの、ではありません。いい子にしていたの、でもありません。誰が優しくしてくれたか、です。
七歳のころ、答えはたいてい、鉛筆を貸してくれるさくらちゃんという女の子で、おばあちゃんは、それが大事な知らせであるかのようにうなずきました。実際、大事な知らせでした。答えが「誰も」の日もありました。祖母は慌ててそれを直そうとはしませんでした。紅茶を注ぎ足して、「じゃあ、明日はあんたが先にね」と言うのです。それが、明日はあんたが優しくする番だよ、という意味だと分かるまで、何年もかかりました。
十五のとき、私は答えるのをやめました。片方の耳にイヤホンを入れたままあのテーブルに座って、一年近く、何ひとつ話しませんでした。それでも祖母は、毎日聞いてくれました。そして十一月のある午後、学校がいちばんつらかった時期に、私はイヤホンを外して、全部を話しました。祖母は一度も口をはさみませんでした。私の話がすむと、「話してくれてありがとう。それで、今日は誰が優しくしてくれた?」と言いました。私が「おばあちゃん」と答えると、祖母は「じゃあ、まずはそこからだね」と言って、もう一枚、パンにバターと砂糖をのせてくれました。
毎晩六時に母が病院から帰ってくると、コートを脱ぐより先に、おばあちゃんがその日のことを母に引き継ぎました。誰が優しくしてくれたか、何がうまくいかなかったか、私が何を食べたか。お母さん、午後はおばあちゃんのもので、夜はお母さんのものでした。そのあいだに隙間を感じたことは、一度もありません。お母さんが働いていたから、私はあの午後をまるごともらえたのです。二人はひとつのチームで、私はその真ん中にいた、運のいい子でした。
最後に具合のよかった午後、四時に、私はベッドのそばに座って、あの質問をしました。祖母は、きちんと考えてくれました。いつも私に考えさせたのと同じように。そして、看護師さんを二人と、お茶を配ってくれる男の人と、私の母の名前を挙げました。それから、「今度は、あんたの番」と言いました。
ですから、皆さんにひとつだけ、小さなお願いがあります。大切な方に、今日は誰が優しくしてくれたかを聞いてみてください。そして、祖母がしてくれたように、じっと座って、答えを最後まで聞いてください。
この一篇が効くのは、会場が、七歳と十五歳とベッドのそばで同じ質問を聞き、説明されなくても、一人の子どもが大きくなるのを見届けるからです。祖母だけが使っていた呼び名を一度だけ口にすることで、この孫にしかなかったものが伝わります。いちばん繊細な仕事をしているのは、母に向けた段落です。祖母と比べて母を測ることなく感謝を伝え、あの午後の外にではなく、その午後の中に、母の居場所をつくっています。
遠く離れて暮らした孫息子から
声に出しておよそ三分半。別の国で育ち、祖母に会うのは年に一度、祖母の言葉は半分ほどしか話せなかった孫息子から。
私は、ここにいる皆さんの多くのようには、祖母を知りませんでした。飛行機で九時間離れた国で、別の言葉の中で育ち、祖母に会えるのは毎年夏の三週間だけでした。一年のそれ以外のあいだ、祖母は、日曜日の午後に電話から聞こえる声でした。
私が話せた祖母の言葉は、半分ほどです。祖母は、私の言葉をほとんど話せませんでした。それで毎週日曜日、母が私に受話器を渡すと、祖母は早口で、あたたかく話し、私に分かるのは三つにひとつくらいでした。そのうち私は言葉をひとつずつ拾うのをやめて、声の響きを聞くようになりました。声を聞けば、その週は膝が痛むのか、私のことを心配しているのかが分かりました。私は、はいと、いいえと、ありがとうを、見当違いのところで言いました。祖母は一度も、それを直しませんでした。ただ、自分のしたかった会話を私としているかのように、そのまま話してくれました。
祖母は私のために、私の言葉を三つだけ覚えてくれました。「コンニチハ」「タベテ」「オオキイ」。それで全部です。そして祖母は、その三つを見事に使いこなしました。毎年夏、空港で私の顔を両手で包んで、「コンニチハ。オオキイ」と言うのです。それから祖母のアパートに着くと、私の鞄が寝室に入るより先に、「タベテ」。これよりずっと長くて、ずっと中身の少ない会話なら、私はいくらでもしてきました。
あの夏には、決まった形がありました。五階まで上がる階段の暑さ。古い缶に植えたハーブでいっぱいのベランダ。私がいるあいだ、祖母が毎日作ってくれたスープ。七歳のときに私が好きだと言ったからで、祖母はそれを、その先二十年分の指示として受け取ったのです。
長いあいだ、私は離れていることに負い目を感じていました。もっと会いに来なかったこと。言葉をきちんと覚えなかったこと。いとこたちは毎週祖母に会えたのに、私は年に一度だったこと。今週、その負い目は下ろすことに決めました。祖母は、三週間を短すぎるものとして扱ったことが一度もありません。三週間を三週間として受け取って、その毎日をいっぱいにしてくれました。そして私が帰るころには、もう来年の夏までの日を数えていました。祖母は、距離のことで私を責めたことがありません。祖母は、遠く離れたあの場所から、私を愛してくれていたのです。
毎年、私が帰るとき、祖母はアパートの戸口で同じことを言いました。今、それを祖母の言葉で言います。祖母が一度も気にしなかった、私のこの訛りのままで。[祖母のひと言を、聞こえるとおりに書く]。だいたい、こういう意味です。気をつけて行きなさい、着いたら電話をちょうだい。
もうひとつ、祖母に、そして毎日祖母とその言葉で話していた皆さんに、お伝えしたいことがあります。私は残りの言葉を、毎週少しずつ、母から習うつもりです。祖母とその言葉で話すには、もう遅すぎます。でも、皆さんの言葉が分かるようになるのに、遅すぎることはありません。
[祖母のひと言]、[あなたが呼んでいた呼び名]。気をつけて行きます。
この一篇が効くのは、距離が最初のひと息で名指しされ、負い目が詫びられるのではなく、皆の前で下ろされるからです。どれほど遠くに住んでいたかは、会場はもう知っています。知りたいのは、あの夏がどんなふうだったかです。そして祖母の言葉で言うひと言が、話し手の言葉でのひと段落にはできないことをしてくれます。そのひと言は、その言葉を話せる人と一緒に練習し、原稿には聞こえるとおりにカタカナで書いておいてください。綴りを読もうとして、演台で止まらずに済みます。
認知症の祖母が、私を母の名前で呼んだとき
声に出しておよそ三分半。母が最前列に座っている前で話す、30代の孫娘から。
最後の何年か、祖母は私を、母の名前で呼んでいました。そして私は、そのままにしていました。
母は恵子といいます。私は彩です。最初の何か月かは、おばあちゃんに恵子と呼ばれるたびに、私は直していました。「私だよ、おばあちゃん。彩だよ」。そのたびに、祖母の顔に小さな不安が浮かびました。どこで間違えたのか自分でも見つけられない間違いをしてしまった、という顔です。私は、祖母にあんな顔をさせるのが耐えられなくなりました。それで、ある日曜日、私はただ、恵子として返事をしました。祖母は、学校から帰ってきたばかりの娘を迎えるような顔で、私に笑いかけました。
私を恵子だと思っているとき、祖母は、少女だった母に話していたはずの話し方で、私に話しました。外は寒いから肌着を着ていきなさい、と言いました。家庭科の縫い物はできたの、と聞きました。パン屋の男の子にまだ家まで送ってもらっているのか、と聞いて、あの子は目がやさしいけれど甲斐性がない、ととても真剣に言いました。その男の子は、あとで分かったのですが、私の父です。今、母の隣に座っています。甲斐性のほうは、ちゃんとなんとかなりました。
祖母は私に、あんたは学年でいちばん泳ぐのが速い子だね、と言い、一度も見に行ってやれなくてごめんね、と謝りました。校長先生に言い返したのは立派だった、とも言いました。校長先生の話は、あとで母が本当だと認めました。三十四年間、誰も私にその話をしたことはありませんでした。
毎週、少しずつ、私は会ったことのない一人の女の子と知り合っていきました。泳ぐのが速くて、縫い物が苦手で、校長先生に言い返して、パン屋の男の子に家まで送ってもらう女の子。四十年たっても、その子が寒くないかと祖母が心配していたほど、深く愛されていた女の子です。
母は三年のあいだ、毎朝、仕事の前に車で祖母のところへ通いました。誰の言葉も、祖母にまったく届かない午後もありました。でも日曜日には、私が母の席に座って、祖母がずっと娘に言いたかったことを聞いていたのです。
ここからは、母に向けて話します。
お母さん、私はずっと、お母さんの代わりをしていただけでした。あの日曜日におばあちゃんが言ったことは、全部、お母さんに言っていたことです。泳ぐのを一度も見に行けなくて、ごめんね。校長先生のことは、えらかったね。お父さんは目のやさしい人だと思っていたよ。甲斐性のことは何と言っていてもね。それから、外は寒いから肌着を着なさい。私は毎回、会ったあとで、施設の駐車券の裏に全部書き留めておきました。百四十枚あって、今、私のかばんの封筒に入っています。お母さんのものです。
おばあちゃん、少女のころのお母さんに会わせてくれて、ありがとう。そして、知っているいちばんいい名前で私を呼んでくれて、ありがとう。
この一篇が効くのは、いちばんつらい事実が一行目にあり、病気を説明しようとは一度もしないからです。語っているのは、その年月が、そこにいた人たちにとってどうだったかです。混乱は家族の歴史に変わり、最後に弔辞は、最前列にいる本当の聞き手のほうを向いて、別の誰かを通して母に向けられていた言葉を手渡します。この一篇は、当日より前にご自分の親に見せてください。言葉はその人に向けられたものですから、どれを声に出して読み、どれを封筒の中に残すかは、その人に決めてもらいましょう。
10代の孫が読む、短い弔辞
おばあちゃんへの短い弔辞。声に出しておよそ二分。十五歳の孫娘が、自分の言葉で書いたものです。
陽菜です。ばあばの孫の中で、いちばん年下です。
ばあばは、私の知っている中でただ一人、LINEに「。」をつける人でした。全部のメッセージに、です。「こんにちは陽菜。ばあばです。勝った。」はてなマークはなし。一回も。それから、どのメッセージにも最後に「ばあばより」とつけていました。誰かがばあばのスマホから私に送っていると、私が思うといけないからです。
「勝った。」は、サッカーのことです。ばあばは毎週土曜日に聞いてきました。サッカーのことは、まったく分かっていませんでした。ゴールキーパーのことを「走り回っちゃいけない子」と呼んで、本気でかわいそうがっていました。
去年、テストが始まったとき、ばあばは毎朝七時にLINEをくれました。「がんばれ陽菜。陽菜はかしこい。ばあばより。」三週間、毎朝です。いつも返したわけじゃありません。もっと返せばよかった。でも、全部とってあります。ばあばからのメッセージが、私のスマホに二百十一件あって、どれも同じ言葉で締めくくってあります。
最後に会ったとき、ばあばに、写真の送り方を教えてと言われました。だから教えました。ばあばはテーブルの向こうから私の写真を一枚撮って、すぐに私に送ってきました。メッセージには「これは陽菜です。ばあばより。」と書いてありました。
ばあばの家では、雨の日は、晩ごはんの前にプリンを食べてもよかったんです。それが、ばあばの決まりでした。ばあばの家では、よく雨が降りました。
どうやって締めくくればいいのか、よく分かりません。ばあばはいつも、言いに来たことを言ったら、そこでおしまいにするの、と言っていました。だから、ばあばと同じやり方でおしまいにします。陽菜より。
手伝う大人の方へ。話すかどうかは、10代の本人に選ばせてください。当日になって気が変わってもいいことにしておきます。直したくなる部分も含めて、本人の言葉づかいはそのまま残してください。「。」の話が面白いのは、十五歳が自分で気づいたからこそです。大きな文字で印刷して、本人が信頼している大人に、原稿の控えを持って隣に立ってもらいましょう。二分あれば十分で、もっと短くてもかまいません。
何人かの孫で一緒に話すとき
はい、葬儀で何人かの孫が話すことはできます。いちばん簡単なのは、三つの弔辞を順に読むのではなく、何人かの声で読むひとつの弔辞を書くことです。それぞれが一部分を受け持てば、同じ話が重なることはなく、会場は祖母に一度だけ、三つの方向から会うことができます。下の弔辞は三人のいとこのためのもので、声に出しておよそ四分。一人がひとつずつ祖母の家の部屋を受け持ち、最後の一行は三人で声を合わせて言います。
いちばん上:私たちは十一人いるので、ばあちゃんならこうしただろう、ということをしました。家を、公平に分けたのです。二日かかりました。ほかの八人は私たちの後ろに立っていて、名前はお手元の式次第に載っています。私がいちばん年上で、台所を受け持ちます。
ばあちゃんの台所は、私たち全員が、役に立つことを覚えた場所でした。あの台所では、手ぶらで座っていることは許されません。初めて泊まりに行くのはだいたい六歳のころで、そのとき小さな包丁とじゃがいもの入ったボウルを渡されて、「薄くね。じゃがいもだってタダじゃないんだから」と言われるのです。三十年のあいだ、日曜日になると、ばあちゃんの食卓には九人から二十人が集まりました。全員にお皿が行き渡る前に、ばあちゃんが座るのを見た人は、私たちの中に一人もいません。ひとつの鍋で全員のおなかを満たして、それでも帰りには、みんなに何かを詰めた瓶を持たせてくれました。どうして先に食べないのか、一度聞いたことがあります。ばあちゃんは、「作りながら食べてるの。誰が味見してると思ってるの」と言いました。
真ん中:私は庭を受け持ちます。ばあちゃんの庭は、ほとんどが物干しでした。いんげんがひと隅に、ばらがもうひと隅にありましたが、大事なのは物干しのほうでした。物干しは、ばあちゃんが話を聞いてくれる場所だったからです。何かあると、外に出て、ばあちゃんに洗濯ばさみを手渡しました。話しているあいだ、ばあちゃんはこっちを見ません。干しているシーツを見ています。そうされると、なぜか言いにくいことも言えたのです。運転免許の試験に三回落ちたことを、私はあそこで話しました。都会に引っ越すことも話しました。結婚することは、自分の親より先に話しました。ばあちゃんは枕カバーを一枚、すっかり干してしまってから、「よかった。あの人は、ちゃんと洗濯物をたためる人だから」と言いました。
いちばん下:私は応接間を受け持ちます。応接間は、お客さんと、知らせのための部屋でした。ふだんの日は、みんな台所にいました。大事なことがあると、ばあちゃんは応接間に連れていって、戸を閉めました。いい知らせも、悪い知らせも。赤ちゃんが生まれたこと。試験の結果。じいちゃんのことで電話があった日。ばあちゃんは窓のそばの緑の椅子に座り、こっちはソファに座って、ばあちゃんは何か言う前に、話を全部聞いてくれました。それからお湯を沸かしに立って、そうすると、もう大丈夫だということでした。ばあちゃんが応接間に連れていった孫は、私が最後です。春のことでした。もうよくはならないのよ、と言って、それから私の試験のことを聞いてきました。そっちのほうが面白い話だから、と言って。
いちばん上:覚えているかぎりずっと、ばあちゃんの家の勝手口から入る人は、みんな同じことを呼びかけました。「ばあちゃん?」。すると家のどこかから、ばあちゃんが答えました。「ここだよ」。
真ん中:朝は台所から。午後は庭から。
いちばん下:夜は、大事なことがあるときは、応接間から。
いちばん上:家は今、静かです。だから今日は、私たちが答える番です。
三人で:ここだよ、ばあちゃん。みんな、ここにいるよ。
この一篇は、祖母を場所で分けています。いとこたちがだいたい同じ年月に祖母を知っていたなら、これがうまくいきます。年齢が何十年も離れているなら、かわりに年代で分けてください。そうすれば、同じ話を二度する人が出ません。順番は一度、全員そろって声に出して練習し、誰も出番を逃さないようにしておきます。それぞれに、自分の台詞に印をつけた原稿を一部ずつ渡し、誰かの声が出なくなったら誰が代わりに読むかを決めておいてください。話したい人が三人、四人より多いときや、式場やお寺、教会の都合で話し手がひとりに限られるときは、ひとりが読んで、ほかの人は並んで立ち、名前を紹介してもらいましょう。残りの人は、精進落としの席で話せばいいのです。孫を代表してひとりが弔辞を読む、いわゆる孫代表を立てるなら、いちばん年上の孫か、祖母といちばん近しかった孫が自然な選び方です。ただ、本当にふさわしいのは、いとこたちが納得した人です。
祖父への弔辞、孫息子から
40代の孫息子から祖父への弔辞。声に出しておよそ三分半。若いころの苦労を胸にしまったままだった祖父のために。孫娘が読む場合も、ほとんどそのまま使えます。
祖父は、私が会った誰よりもよくしゃべる人でした。バスの運転手さんとも、角のたばこ屋のおじさんとも、テレビとも、私とも、たいていのことを話しました。野球、お米の値段、メロンの食べごろの見分け方。たいていのことは、です。ただひとつ、決して話さなかったのが、人生の最初の二十五年のことでした。聞いても、「なに、働いてたよ」と言って、メロンの話に戻ってしまうのです。
先日の日曜日、祖父の妹で、私には大叔母にあたる芳江おばさんが、二人が生まれた町から電話をくれました。四十分のあいだに、芳江おばさんは、祖父が四十四年間私に話さなかったことを話してくれました。
祖父は十一歳で学校をやめて、父親と一緒にれんが工場で働きました。十九歳のとき、住所を書いた紙一枚を持って、言葉をひと言も知らないまま、この国に来ました。四年のあいだ、ほかの男の人五人と一部屋で暮らし、クリーニング工場で夜勤をして、稼ぎの半分を毎月、家に送りました。芳江おばさんが学校に通えるようにです。電話の向こうで、おばさんは言いました。「私が持っているものは全部、兄さんが男の人五人と一部屋で寝てくれたおかげなの」。
私は、そのどれも知りませんでした。電話を置いたとき、私が思い出したのは将棋のことでした。
祖父が将棋を教えてくれたのは、私が八歳のときです。祖父は一手に十分、ときにはもっとかけました。私が急ぐと、私の駒に手をかぶせて、「まず、盤全体を見なさい」と言いました。年寄りというのはそういう指し方をするものだ、と私は思っていました。今は、あれは祖父が決めたことだったのだと思います。若いころには時間などまるでなく、夜通し働き、書類のために列に並び、小銭を一枚残らず数えていた人が、年をとってから、私たちの知る誰よりも気の長い人でいることを選んだのです。
祖父は、どれほど大変だったかを一度も私たちに話しませんでした。私は昔、それを残念に思っていました。でも、それも祖父が決めたことでした。祖父は、私たちにそれを背負わせたくなかった。私たちには、野球とメロンと将棋を、そしてテレビと言い合いをするおじいちゃんを、持っていてほしかったのです。祖父は、わざと、気楽なほうの自分を私たちにくれました。そして、その自分をつくるのに、一生かかったのです。
芳江おばさんは、今日は来られませんでした。おばさんが四十年間教師を務めたのは祖父のおかげだと、皆さんにお伝えしてほしいと頼まれました。芳江おばさん、話してくれてありがとう。あの気の長さがどこから来たのか、今は分かります。
おじいちゃん、私は今でも将棋を指していて、今でも遅いです。息子は八歳になりました。盤に、駒を並べてあります。
この一篇が効くのは、あとから知ったことが、出どころを名指しした、ひと握りの事実として早めに出てきて、そのうえで会場の皆が共有している思い出のほうへ向け直されるからです。誰もが、祖父と過ごした自分の午後を、もう一度見ることになります。弔辞は、黙っていたことで祖父を責めません。その沈黙を、孫たちのためになされた選択として読みます。今週知ったことが、知っていたはずの人の姿を変えてしまうなら、どこで知ったのかを言い、事実は三つか四つに絞り、それで、もともと大好きだったことをひとつだけ説明してください。ひとつの持ち物を通して語るほうが合う人なら、お別れの会のスピーチ例文にある持ち物の弔辞が、別の型で組み立てられています。
祖母の子どもたちの前で話すこと
何を話すつもりかは、当日より前に、親とおじ、おばに伝えておいてください。そうすれば、どの言葉も不意打ちになりません。一人ずつに、ひとつだけ質問をしましょう。たとえば、自分たちが小さかったころ祖母はどんな人だったか、と。使える話がひとつ手に入りますし、相手には、あなたが自分たちの頭越しにではなく、自分たちと一緒に話すのだと伝わります。家族の歴史を人前で訂正しないでください。おじさんの話が間違っていても、そのままにしておきます。まず祖母の子どもたちのものである思い出もあります。育った家のこと、祖母と一緒にくぐり抜けた苦しい年月のこと。そうした話は子どもたちに任せるか、借りる前にひと言断ってください。

「おばあちゃん」と呼んでいたなら弔辞でも「おばあちゃん」と、「ばあば」と呼んでいたなら「ばあば」と言ってください。家で返事をしてくれた呼び名を使います。「おばあさま」でも、「ばあちゃん」でも、家族のあいだだけで通じる呼び名でもかまいません。言葉によっては、呼び名そのものが、父方か母方かを会場に伝えます。日本の家族なら、「横浜のおばあちゃん」のように、住んでいた町の名前で呼び分けていたかもしれません。会場に向けて話す部分は「祖母」でかまいませんが、呼びかけるときは、改まった呼び方ではなく、実際に使っていた呼び方を選んでください。
孫にしか答えられない五つの問い
上の例文から一行でも借りる前に、この五つの問いと二十分過ごしてください。祖父母への弔辞のために作った問いで、その答えはたいてい、会場のほかの誰にも語れない部分になります。

- 祖母の家でだけ許されていたことは何ですか。夜ふかし、晩ごはんの前のプリン、いい椅子、食事中のテレビ。祖母があなたのために作った例外は、あなたといるときの祖母がどんな人だったかを、会場に伝えます。
- 祖母は、あなたを何と呼んでいましたか。戸籍に載っている名前ではありません。少し照れくさいなら、それこそ弔辞に入れるべき呼び名です。
- 決まったある時刻に、祖母の家はどんな音やにおいがしましたか。朝の七時、日曜の正午、家族で食卓を囲む前の一時間。先に時刻を選べば、細かいことはあとからついてきます。
- 祖母は、子どものころのあなたの親について何と言っていましたか。親に聞いてみてください。あなたが生まれる前の話がひとつ手に入り、親には、あなたの弔辞の中に静かな出番ができます。
- 祖母は、何を取っておいていましたか。包装紙や紐をためた引き出し、あなたが送った誕生日カード全部、廊下の壁に学年順に貼ってあったあなたの学校の写真。祖母が取っておいたものは、祖母が何に目を向けていたかを会場に伝えます。
答えをひとつ選んで弔辞の柱にし、ほかの答えは細部に使ってください。下書きができたら、いとこに声に出して読んで聞かせましょう。いとこは同じ祖母を別の角度から知っていて、ほかの人のものである話に気づいてくれます。おばさんが話すつもりでいる話や、あなたではなく、きょうだいに起きた話です。あなたが忘れていた細部を、思い出させてくれることもあります。読み返すときは、弔辞では避けるならわしのある言葉も確かめてください。「重ね重ね」「たびたび」「いろいろ」「ますます」のような重ね言葉や、「再び」「追って」「引き続き」のように不幸が続くことを思わせる言葉です。「死ぬ」のような直接的な言い方は、「亡くなる」に言い換えます。宗教や宗派によって避ける言葉が違うこともあり、たとえば浄土真宗では「ご冥福」を使いませんので、迷ったら葬儀社の方に確かめてください。
今からでも聞いておける問い
これを書きながら、祖母に聞かずじまいだった質問が見つかったかもしれません。生まれた町をなぜ離れたのか。二十歳のころはどんな人だったのか。いつも口にしていたあの言葉は、どういう意味だったのか。そうした答えのいくつかは、今も家族の中にあります。そして、それを持っている人はすぐそばにいます。祖母の子どもたちと、もしかしたら、今もお元気な祖父です。
親が元気なうちに聞いておきたい質問は、祖父母に聞くときにもそのまま使えます。そして家族のために自分の声を残す方法では、実際にどう録音するかを扱っています。葬儀のある週に、これをする必要はありません。こうした質問は、家がもとの静けさを取り戻してからのほうが聞きやすいことも多いのです。よく知っている声で語られた、ひと午後ぶんの答えは、家族みんなで持っていられるものになります。
Goodbye Appでは、名前を挙げた方への手紙を書き、自分の声の録音を添えることができます。今もお元気な親御さんや祖父母の方も、同じようにできます。それぞれの手紙がメールで届く日と時刻は、最長で三十年先まで、自分で選べます。送られるまでは非公開のままです。無料で、ウェブとAndroidで使えます。残された祖父母の方が孫に手紙を書きたいときは、孫に残すメッセージの書き方のガイドが、まさにその方のために書かれています。
よくある質問
祖母への弔辞は、どう書き出せばいいですか。あなたにとってどんな人だったかを、呼んでいた呼び名を使って、飾らない一文で言ってください。「おばあちゃんは七年間、毎日、校門で私を待っていてくれました」。そこからすぐに、ひとつの場面に入ります。お礼の言葉や一生の歩みは後回しにするか、印刷された式次第に任せてかまいません。
祖母への弔辞は、どのくらいの長さがいいですか。話し手がひとりなら三分から五分、何人かで話すなら一人二分から三分が普通です。このページの弔辞は二分からおよそ四分まで。一分や二分の版は、短い弔辞の例文のページにあります。
何人かの孫で、ひとつの弔辞を読んでもいいですか。はい。何人かの声で読むひとつの弔辞を書き、上の三人のいとこのように、それぞれが一部分を受け持ってください。話せるのがひとりだけなら、ひとりが全員を代表して読み、ほかの人は並んで立って、名前を紹介してもらいましょう。
祖母のことを、あまりよく知らなかったらどうすればいいですか。最初のほうで、一文でそう言ってください。そのあとは、知っていた部分について話します。会いに行ったこと、電話、ある日の午後。あなたが生まれる前の話をひとつ親に聞いて、それが誰の話なのかも言いましょう。正直で小さな弔辞は、借りてきた大きな弔辞にまさります。
子どもや10代の孫が、祖父母の葬儀で話してもいいですか。本人が望むなら。選ぶ機会を本人に与え、当日になって気が変わってもいいことにして、信頼している大人がそばにいるようにしてください。もっと小さな子なら、話すかわりに、詩を選んだりカードを作ったりして、準備に加わることもできます。
教会での葬儀で、孫が話すことはできますか。多くの場合できますが、先に確認してください。カトリックの葬儀ミサでは、多くの教区で、故人をしのぶ言葉には司祭の許可が必要で、聖体拝領のあと、最後の告別の祈りの直前に置かれます。ほかの教派や宗教にはそれぞれのならわしがありますので、式を司る方に聞いてください。その場がなければ、教会が認めていれば通夜の祈りで、あるいは通夜のあとの集まりや墓前、会食の席で話しましょう。
最後まで読めそうにないときは、どうすればいいですか。止まって、息をして、言葉が戻ってくるまで原稿を見てください。そして最前列の近くにいる誰かに控えを一部渡しておき、どうしても読めなければ、その人に最後まで読んでもらいましょう。ほかのことは、泣かずに弔辞を読む方法のガイドにまとめてあります。
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