
母についてお話しする時間を、数分だけいただくことになりました。ここ何日かの夜は、たぶん同じように過ぎたはずです。机に向かい、三行書いて、その三行がどれも、贈り物に添える挨拶状のような言葉になる。これは、愛情が足りないのでも、文章が下手なのでもありません。物心のつく前から自分の人生のどの部屋にもいた人について書こうとすると、必ずこうなるのです。
以下に、母親への弔辞の例文を六篇、すべて全文で載せます。書き出しを十五通り並べて、あとは形容詞の一覧、というものではありません。三篇は娘から、三篇は息子から。どれも、今夜そのまま立って読めるだけの長さがあります。想定した事情は六つ。長い療養、言葉の得意でない息子、何の前ぶれもない別れ、認知症、けっして単純ではなかった関係、そして家族を代表してひとりで話す場合です。それぞれの冒頭に、声に出したときのおおよその時間を書いてあります。いただいた時間に合うものを選んでください。
母への弔辞が、いちばん難しい理由
母親を送る言葉が難しいのには、誰も前もって教えてくれない理由があります。母がしてくれたことの大半は、物語として残らないからです。それは、あなたという人の中に、事実として残ります。毎日のお弁当、車の中で待っていた時間、熱を出した夜、書類の記入、世の中とあなたのあいだに立って引き受けてくれた面倒ごと。どれも、九十秒で語れるかたちを持っていません。逸話を探しにいって、見つかるのは土台なのです。
重さは、もうひとつあります。目の前の席には、母をまったく別の人として知っていた方々が並んでいます。おばあちゃん、おばさん、二軒先の奥さん、町内の名簿に書かれた名前。母親としての母を知っているのは、その場であなただけです。そして同じ朝、あなたは、皆が「大丈夫だろうか」と静かに目で追っている人でもあります。日本の式では、弔辞は本来、ご友人や職場を代表する方が読まれることが多く、家族が読むときには、話し手と、いちばん近しい遺族という二つの役目を、同時に引き受けることになります。これは実際に難しい仕事です。難しくて当たり前だと、はっきり申し上げておきます。
ですから、ここからは安心していただいて構いません。母の一生をまとめる必要はありません。母の小さなひとかけらを、会場の誰もが「ああ、あの人だ」と分かるくらい、はっきりと持ち込めればいいのです。ある一時間。ある習慣。いつも同じやり方でしていた、ささやかなこと。それができれば弔辞は仕上がっています。書かなかったことは、書かなくても本当のままですし、会場の皆さんも、それを知っています。
六篇の使い方
澄子おばさんも、和子さんも実在しません。音の鳴りだした冷蔵庫も、ホームセンターの外のベンチも同じです。六人の話し手は、人が実際に演台で話すときの息づかいを集めてつくった、架空の人物です。固有名詞はすべて、仮の言葉が置いてあるだけの空欄だと思ってください。ですから、自分が建てたのではない家を見る大工のように読んでください。どこで重さを受けているか、そこだけを見るのです。段落をそのまま持ち上げて使えば、声に出した最初の一度で継ぎ目の音が聞こえます。二列目に座っている伯母にも、同じ音が聞こえます。
ご自分の事情にいちばん近いものを選んで、骨組みとして使ってください。療養の一篇が近いけれど、母は一度も弱音を吐かなかった、というのなら、枠はそのままに、中身の証拠だけを入れ替えます。見本ではなく、白紙から書く方法そのものを知りたい方は、弔辞の書き方のガイドが全体の道筋をたどっています。このページは、その下に置かれた実作例です。
娘から、長い療養のあとに
声に出しておよそ三分。息の続く速さで読んだときの長さです。
母は、家族全員のことを、封筒の裏で回していた人でした。買い物、誰の誕生日、誰が誰にいくら立て替えているか、お医者さまが本当のところ何とおっしゃったか。台所に困りごとを持って入ると、出てくるときには箇条書きになっていて、その箇条書きは、困っていたときより必ず短くなっていました。あれが母の手品だったのだと、今になって分かります。
先月、図書館から借りた本のあいだから、平成十年の一枚が出てきました。こう書いてあります。パスポート、美咲の吸入器、銀行にお父さんのこと、松本さんのお子さんに何か。並んだうちのひとつは、よその家の子どものことでした。五十年のあいだ、母の割合はずっとそれでした。
母は二年四か月、療養していました。ここははっきり申し上げます。母なら、そうしたはずですから。戦いと呼ばれるのを嫌がりましたし、立派だと言われるのも嫌がりました。いつだったか待合室で、立派というのは選べる人のための言葉で、自分にあるのは予約票だけだ、と言っていました。
その二年間に母がしていたのは、やはり書くことでした。椅子から、それからは寝床から。弟の車の保険が書いてありました。孫の上履きが書いてありました。八月には、あの読みにくい字で、半年以上も先の親戚の集まりについて、どの従兄弟とどの従兄弟を隣にしてはいけないかを書き出していました。自分の体のことがあって、それでも席順を決めていたのです。あのときは笑いました。あれから毎日、そのことを考えています。
つまり、そういう人でした。家族を漠然と愛していた人ではありません。家族のかわりに物事を引き受けて、その人の一日を、少しでも軽くしてしまう人でした。わが家の愛情は、言葉だったことが一度もありません。誰かが、つまずく前に、黙って石をどけておくことでした。
最後の一枚は、枕元にそのままにしてあります。書いてあることは、ひとつを除いて全部、私たちのことです。残りのひとつには「中村さんに折り返す」とあります。中村さん、母は火曜日に、あなたのことを考えていました。
私には、母と同じことはできません。もともと几帳面ではありませんし、これからもそうでしょう。それでも、書き留めるようにはなりました。折り返すようにもなりました。今日ここにいる一人ひとりが、今週、どなたかの肩の荷をひとつ、頼まれる前に下ろして差し上げたら、母はこれからの五十年も、この家族を回し続けることになります。お母さん、ありがとう。あとのことは、引き受けます。
気づいていただきたいのは、書かれていないほうです。長い療養に世間が着せがちな言葉が、ひとつも出てきません。「立派」という言葉を母自身の声で断らせることによって、この弔辞は、ほかのすべての場面で感傷に寄りかからずにいる権利を手に入れています。席順の話が、涙を誘う道具ではなく人柄として届くのは、そのためです。そして、手をつけずに残したひとつの品、最後のメモが、終わりの言葉に立ち場所を与えています。
息子から、言葉が得意ではないままで
声に出しておよそ三分。
まず、ここにいる全員がとっくに知っていることを、白状させてください。私は話すのが得意ではありません。十一のときからずっとそうです。母は話す人でした。そして、それで二人ともうまくいっていました。母が二人分しゃべってくれましたし、私に言葉を返せと求めたことは、一度もありませんでしたから。
木曜になると母から電話がかかってきて、二十五分ほど話します。私が出すのは「うん」と「へえ」と「そうなんだ」だけです。それから母は「声が聞けてよかった」と言って、本当に心からそう言って、切るのです。母はそれで、会話が成立したと思っていました。そのあと妹に電話をして、私が最近どうしているかを報告していたと知ったのは、ずっとあとのことです。四十秒ぶんのうなり声から、どうやって一本の報告書を取り出していたのか、いまだに分かりません。
三月のある木曜日、母は、いろいろな話のあいだに、ひと晩病院に泊まったとだけ言いました。私は「そうなんだ」と言いました。母は「なんでもないの、点滴をするからって」と言いました。私は「うん」と言いました。それから母は、隣の家の話に戻りました。電話が切れたあと、私は車の中に十分ほど座ったまま、エンジンをかけませんでした。私の「うん」が何を抱えているか、母には毎回、正確に分かっていました。そして一度も、中身を出してみせろとは言いませんでした。
十九のとき、母があんなに喜んでいた学校を辞めると伝えました。一週間、頭の中で練習しました。言葉を四つ五つ出したところで、母はこう言いました。「そう。じゃあ、かわりに何をしようか」。私が、ではなく、私たちが、でした。それから母は一時間ほど話して、話し終わるころには段取りができていて、私はほとんど何も言っていなくて、それなのに、あんなに話を聞いてもらえたと感じたことは、あとにも先にもありません。
母について分かっていただきたいのは、そこです。母は、沈黙が怖くて言葉で埋めていたのではありません。この家の口下手な人間に、立っていられる場所をつくるために、埋めてくれていたのです。
ここで、母がどれだけ皆さんを大事に思っていたかを話しなさい、と母なら言うはずですし、実際そのとおりで、母ならもっとうまく話したはずです。ですから私は、自分に唯一できることをします。短く済ませて、言ったことは全部本当にする、ということです。
お母さん。話してくれて、ありがとう。木曜日を、ありがとう。声が聞けてよかった。
よく話す母を送るのに、話せない息子ほどふさわしい人はいません。この弔辞は、そのことを自分で分かっています。短さを詫びるかわりに、短さを使いました。そして最後の一行で母の口癖を母に返しているので、弔辞は、話し手の声ではなく母の声で終わります。言葉が得意でないことを負担に感じているのなら、最初の一文でそう言ってしまってください。そこから先は、会場全体が味方になります。
娘から、突然の別れのあとに
声に出しておよそ三分。
十日前、私は母と、冷蔵庫の話をしました。母の家の冷蔵庫が変な音を立て始めて、修理を呼ぶべきか、このまま使うべきか、という話です。十一分間、その話をしました。それが、母と交わした最後のまともな会話です。何日かのあいだ、私はその会話が、あまりにも小さかったことを許せませんでした。
今は考えが変わりました。そして、今朝の私が皆さんにお伝えできるのは、それだけです。母と私のあいだに、言い残したことはありませんでした。言うべきことが、もう残っていなかったのです。四十一年かけて、冷蔵庫やバスや、疲れて見えるかどうかの話を、十一分ずつに分けて言い続けてきたからです。もし分かっていたら、私たちは何か大きなことを言おうとして、二人とも決まりの悪い思いをしたでしょう。かわりに私たちが持っていたのは、毎日の、ありふれた証拠でした。そしてその証拠は、すべてそろっていました。
母は現実的な人で、内緒でとても情の深い人でした。お通夜のために片道四時間運転して、行きも帰りも道の混み具合に文句を言い続けて、最後まで残って洗い物をしている。いろいろな書類の緊急連絡先に名前が書かれていて、その全部がうちの書類だったわけではありません。同じ通りの誰かに大変な年が来ると、いつのまにか煮物が届いていました。母はそれを、親切だと言ったことが一度もありません。「だって、誰かがやるでしょう」と言っていました。
物置に球根があります。三週間前に買ってきて、袋に印をつけてありました。もちろん、つけてあります。三行目から下り坂になる、あのいつもの字で、こう書いてあります。玄関、窓の下、日陰のほうじゃない。私は園芸をしません。それでも植えます。下手に、たぶん場所も間違えて。そして春になれば、母の思い描いたものの、少しばかり乱れた版が咲くはずです。それは、母が私たちみんなの中に残していったものの、かなり正確な説明でもあります。
もし今ここで、母と最後に交わした会話のことを気にしていらっしゃる方がいたら、何人かいらっしゃるのは分かっていますので、申し上げます。気にしないでください。母は、最後の一回で人を測る人ではありませんでした。母が測っていたのは全部の回で、その全部が、いいものでした。大切な人と、冷蔵庫の話をしてください。愛情は、そういうものでできています。お母さん、いってらっしゃい。誰かが言わないといけないのなら、私が言います。
会場の半分は、母と最後に話したのがつまらないことだった、という同じ不安を、黙って抱えています。この弔辞は、それを二文目で名指しして、そのまま解きほぐします。突然の別れの場では、どんな賛辞よりも、その作業のほうが効きます。もうひとつ、やり残しである球根が、完璧に仕上げると約束されるのではなく、わざと不完全なまま残されていることにも注目してください。終わりが正直なままでいられるのは、そのためです。
息子から、認知症の日々のあとに
声に出しておよそ三分半。六篇の中でいちばん長いものです。
母は、最後の六年間、認知症でした。そのことをお伝えすると、相手の表情がある決まった動き方をすることに、私は気づいていました。ですから、六年の話は先に済ませてしまいます。そのあとの時間は、残りの七十九年に使わせてください。
六年は、たしかに大変でした。母にとって大変で、そこがいちばん、私たちには分からないところです。そして、大半を引き受けた妹にとっても大変でした。その中には、よい日もありました。本当におかしくて笑った午後もありました。あの六年が、失うばかりの時間だったふりをするつもりはありません。けれども、六年です。八十五年の一生の見出しになっていい長さではありません。
では、その前の話を。母は、私が会った中でいちばん本を読むのが速い人でした。クロスワードはペンで解きました。家にある本ならどれでも、話の筋と、自分がどこに座って読んだかを言えました。同じ学校に三十一年勤めていましたので、店先で急に「覚えていらっしゃらないでしょうけれど」と話しかけられる、あの場面が、私たちの子ども時代のいたるところで鳴っていました。
意見の多い人で、そのどれもが、暮らしの柱になっていました。店員さんへの態度を見れば、その人のことは全部分かる、と言っていました。忙しくて本が読めないと言う人は、別の何かを言っているのだ、とも。大きなことを少なくともふたつ、母は間違っていました。そのどちらも、生涯認めませんでした。もう言い返せない今になって、それが何だったかを申し上げるつもりはありません。
終わりの近くには、母は私の名前が分かりませんでした。この人はそばにいていい人だ、ということだけは分かっていました。そして、歌がありました。昭和三十年代の、ずいぶんばかげた歌で、母は台所仕事をしながらよく歌っていて、私自身は、そんな歌は覚えていないと言い切ったはずの歌です。三月のある午後、何も考えずに四つほど言葉を口ずさんだら、母がその続きを取りました。それから毎回です。本当に、毎回でした。
音楽は、病がいちばん最後にたどり着く場所にあるのだと、あとで教わりました。仕組みのことは、私にはどうでもいいのです。私に分かっているのは、あそこに母のものが残っていて、それはまだ母のもので、そして歌っていた、ということだけです。
あの六年のあいだに会いに来てくださった方、ありがとうございました。とても見ていられなくて来られなかった方、母は、皆さんが思うよりずっと、それを分かっていたはずです。今日ここから、そのことを抱えて帰る方がいませんように。ペンで解く人として、覚えていてください。店先で声をかけられる人として。ふたつのことを、大きな声で間違えたままの人として。今日私たちが送るのは、そういう人です。
認知症の弔辞は、ふたつの方向のどちらかに転びます。衰えがなかったことにするか、衰えに肖像を丸ごと飲み込ませるかです。ここで両方を防いでいるのは、声に出して言われた割合です。六年を正直に名指ししてから、七十九年を取り返しています。来られなかった人を許すという小さく珍しい行いは、多くの家族が、誰かに許可してほしいと思っているものでもあります。
娘から、関係が単純ではなかったときに
声に出しておよそ三分半。
母と私のあいだは、楽ではありませんでした。ご存じの方も何人かいらっしゃいますし、ご存じない方も、この場の空気でお分かりになると思います。ですから、母も私も知らないような女性を、ここで読み上げるつもりはありません。
本当のことを申し上げます。母は喜ばせるのが難しい人で、私は長いこと、それを試み続けていました。年に二回しか話さない時期がありました。正月と母の誕生日で、どちらも短い電話でした。そのことで、大人になってからずいぶん長く相談に通いました。ここでそう申し上げるのを、恥ずかしいとは思っていません。
これも、本当のことです。母は十七で弟を産み、何も持っていませんでした。本当に何もです。そして、誰も助けませんでした。母が私に与えられなかったものが何であれ、母は、自分が与えられたよりずっと多くを私に与えましたし、私が一度も立ったことのない、ずっと後ろの地点から、そうしてくれました。このふたつの文を同時に持てるようになるまで、私は四十代までかかりました。今は、持てます。
母は面白い人でした。本当に、切れ味よく面白い人で、気に入られさえすれば、どの席でもいちばんの話し相手でした。あるとき先生に面と向かって、そのお話しぶりは券売機のようですね、と言ったことがあって、私の息子は、いまだにその話をさせたがります。
母は、ごめんなさいが言えませんでした。あなたのことが大事だ、も言えませんでした。それでも、その同じ息子が入院したとき、夜通し車を走らせて、明け方の四時に、ひどい味のコーヒーを袋に入れて廊下に座っていることはできました。あれが、謝罪でした。ほかのかたちで届くことは、はじめからなかったのです。私は長いあいだ、そのかたちで受け取ることを拒んでいました。
三年前、ホームセンターの外のベンチで、母が私に何か言いました。二十文字にも満たない言葉です。ここで繰り返すつもりはありません。あれは私のものですから。謝罪ではありませんでしたし、説明とも少し違いました。母が届くことのできた、いちばん近いところでした。そして私は、いちばん近いところというのは実在するもので、ちゃんと数に入る、と決めました。
ですから、母は立派な母親でしたと申し上げるつもりはありません。母は私の母でした、と申し上げます。自分がしてもらったよりは、よくやった人でした。そして私はここにいて、立っていて、母を許しました。あの言葉を、ありがとう、お母さん。
つらいことは最初の十秒で言い、そのあとは二度と、恨みとして戻らない。それ以降はすべて、証拠と、背景と、送られる人への一度きりの寛大さです。ベンチでの言葉を明かさないことが、ふたつ目の学びどころです。何かを分け与えないという拒み方は、それが本当にあったことの、いちばん強い証明になります。関係が難しかったのなら、この形が、葬儀を審理の場に変えずに正直でいる方法をくれます。
息子から、家族を代表して
声に出しておよそ三分半。
今日この役目をいただいたのは、私がいちばん上だからで、いちばん上手だからではありません。そこで私が最初にしたのは、ずるをすることでした。全員に、一文ずつくださいとお願いしたのです。これは私の弔辞ではありません。家族の弔辞で、私は紙を持っているだけです。
妹の美穂。母の家では、初めて来た人でも、お客さんの顔をさせられなかった。
弟の健一。電話に出て相手が自分だと分かったとき、条件なしで嬉しそうにしてくれた人は、母だけだった。
母の妹の澄子おばさん。うちの母を笑わせられる人でした。そう何人もいませんでした。
昭和四十九年に市民プールで知り合って、五十年間、毎週会っていた友人の和子さん。話すことがなくなったことが、一度もありませんでした。和子さん、私はこれを二度確かめました。私も信じられなかったからです。
向かいの大久保さん。二十二年のあいだ、手ぶらで訪ねてきたことが一度もなく、長居をして迷惑になったことも一度もありませんでした。これも二度読み返しました。送られてきた中で、いちばん正確な一文だったからです。
妻の由香。この家族の中で、家族以外の話を私としてくれた最初の人でした。
十五歳で、聞かれるのを嫌がった息子の悠真。大きくなったね、と一度も言われなかった。
九歳の娘の結衣。おばあちゃんは、聞いたことにちゃんと答えてくれた。九歳です。私たちが何十年もかけて気づいたことに、指をかけています。母は、聞かれたことに答える人でした。相手をうまく扱おうとする人ではありませんでした。
自分の一文に、いちばん時間がかかりました。母にふさわしいことを書こうとして、書くものが全部、大きすぎたのです。ですから、小さいまま置きます。母は、私が報告する相手でした。四十八年ぶんの試験の結果と、就職の知らせと、離婚がひとつ、全部あの人のところに届けてあって、そして今、伝える相手がいません。母が旅立って二日目の朝、いい知らせがあって、私は、思い出すより先に電話を手に持っていました。
母を失うときに失うのは、そういうものです。その人だけではなく、聞いてくれる人を失うのです。ですから、全員を代表して最後に申し上げます。おたがいに報告してください。澄子おばさんに電話してください。和子さんに電話してください。向かいの家の戸を叩いてください。火曜日にあった小さなことを、どなたかに話してください。母なら知りたがったはずですし、この会場には、今でも知りたい人がいるからです。お母さん、私たち全員から、ありがとう。
ここでは、集めた一文がすべての仕事をしています。そのどれもが、弔辞を一語も書く前に集められていて、そのことが、代表の弔辞を要約から合唱に変えています。子どもの一文が置かれている場所にも意味があります。いちばん無防備な一文は、自分の番の直前、終わり近くに置いてください。家族を代表して話すよう頼まれたのなら、これを組み立てるための電話そのものが、ご親族にとっては弔辞以上の価値を持ちます。
六篇に共通していること

名前を取り除くと、毎回、同じ五つが仕事をしています。
どれも、一生をまとめようとしていません。それぞれが狭いところを選んで、深く掘ります。封筒の裏、木曜日、冷蔵庫、歌、ベンチ、一人ひとつの言葉。弔辞が、声に出して読む経歴書のように聞こえてしまうのは、広く取ろうとするからです。
どれも、母の言葉を引いています。母の言い回しのままの六文字は、人柄についての六つの文よりも速く、母をこの場に連れてきます。言い間違いの部分も含めて、言葉づかいは正確に写してください。家族が覚えているのは、心情ではなく節回しです。
どれも、何かを認めています。つらかった療養、話せない息子、誰も触れたがらない六年、痛みのあった関係。何も認めない弔辞は信じてもらえませんし、信じてもらえない弔辞は、誰のことも慰められません。
話し手が、ちょうどいい大きさのままでいます。息子であり、娘である。伝記の書き手でも、裁く人でも、母の存在の意味について語る家族の代表でもありません。小さいほうが、心に届きます。
どの結びも、会場に役目をひとつ手渡しています。誰かの肩の荷をひとつ下ろす。冷蔵庫の話をする。澄子おばさんに電話する。葬儀から出てきた人は、手を動かす先を必要としています。そして弔辞の最後の一行は、それを誰かが教えてあげられる、唯一の場所です。
六篇を、自分のものにする
ページの先頭から書き始めないでください。まず、誰も見ていないところで、三つの問いに下手なまま答えるところから始めます。

母の手は、何をしていましたか。どんな人だったか、ではありません。何を、繰り返し、知らない人にも説明できるかたちで、実際にしていたか、です。拭く、書く、運転する、分ける、植える、受話器を肩と耳ではさむ。ほかの何よりも先に、それを書き留めてください。最初の十秒で見るべき手を与えられた会場は、そのあとどこへでもついてきますし、残りはどんな順番で話しても構わなくなります。
母が言いすぎて、聞こえなくなっていた言葉は何ですか。どの家族にも三つ四つあります。そのうちのひとつが、あなたの最後の一行です。書き出してみれば、どれかはすぐに分かります。
母が与えられなかったのに、あなたに与えたものは何ですか。これは、複雑な関係をほどく問いであり、感じのいい賛辞を、人の心に残る何かに変える問いでもあります。母を、あなたの歴史の中だけでなく、母自身の歴史の中に置き直すからです。
それから、あなたが生まれる前の母を知っている人に、ひとり聞いてください。いちばん古い友人、母の姉妹、同じ職場で仕事を覚えた人。どんな人でしたか、ではなく、子どもを持つ前はどんな人でしたか、と聞くのです。何のために貯めていたか、何に腹を立てていたか、本当は何をするつもりだったか。これを思いつく人は、ほとんどいません。そして、母への弔辞にだけ必要で、ほかの弔辞には要らない問いです。子どもの持っている証拠は、必ず一生の途中から始まるからです。返ってくるのは知らない誰かの話で、それでいて、まぎれもなくあなたの母です。そして本番の前に一度、どなたかひとりの前で、声に出して読んでください。紙の上では、三十字ぶん長い文が聞こえません。
最後まで読めそうにないとき
これをするために立つ人のほとんどが、最後まで読めないのではないかと怖がっています。前もって整えておく価値のある手当ては、ひとつだけです。同じ原稿を持った人を、最前列にひとり決めておくこと。失敗しようのない弔辞は、自分で読むのもずっと楽になります。緊張、間の取り方、喉が詰まる行については、泣かずに弔辞を読む方法のガイドにまとめてあります。
母自身が話したはずの言葉
あなたは今、六人の人が、封筒の裏と木曜日と、半分しか覚えていない歌から、ひとりの人を組み立て直すのを見てきました。その誰もが、優しさと愛情をもって、どこかを推し量っています。そして、その空白を埋められたはずの人は、語られている本人だけです。あの球根をなぜ買ったのかを知っていたのは母です。ベンチでの言葉が何を意味していたのかを知っていたのも母です。誰も本人に聞きませんでした。母について書くことになる、あの一週間が来るまで、誰も聞かないからです。
ご自分の家族には、その推し量りをさせずに済みます。しかも、この弔辞を書くより短い時間で済みます。Goodbye App では、自分の声で数分だけ録音して、名前を挙げた方への手紙を書き、今日から三十年先までのあいだで選んだ日に、メールで届くよう予約できます。送られるまで、内容はすべて非公開です。無料で、ウェブとAndroidで使えます。多くの人は三分か四分録音して、それきりです。そして三分か四分あれば、足ります。
何を入れればいいか迷うときは、自分の弔辞を生前に書いておく方法が書く側のことを、自分の葬儀に向けたメッセージの録音が、残された家族が実際にどう受け取るかを扱っています。あなたがなぜ球根を買ったのかを、誰かが推理する必要はありません。あの言葉が何だったのかを、家族で話し合って決める必要もありません。ご自分で、伝えておけばいいのです。
よくある質問
六篇のうち、どれを選べばいいですか。本当に知りたいのが弔辞の長さのことなら、それは短い弔辞の例文で、話す速さや、時間が決められている場合の版とあわせて、きちんと答えてあります。そうでなければ、好みではなく事情で選んでください。六篇のうち、ご自分の状況にいちばん近いものは、いちばん難しい一文を、すでに済ませてくれています。時間が決められているなら、各篇の冒頭に書いた所要時間で選んで、それから中身の証拠だけを入れ替えてください。
二人で話すことになりました。どう分ければいいですか。主題ではなく、時間で分けてください。そうしないと、二人とも同じ三つの話をします。うまくいく分け方は、片方が療養の前、あるいは母が引っ越す前までを受け持ち、もう片方が最後の二年を受け持つやり方です。会場は、重なり合うふたつの要約ではなく、順番に並んだ一生を受け取れます。最後の一行をどちらが言うかは前もって決めて、もう片方は、ひと呼吸早く終えてください。
母は難しい人でした、と言ってもいいのでしょうか。はい。愛情を持って抱えたまま、正直な段落ひとつぶんなら。葬儀の場にふさわしくないのは、洗いざらいの申し立てのほうです。見分け方は簡単です。それで母がより実在するなら言う。自分がより正しくなるだけなら、言わない。
義理の母への弔辞はどうでしょう。関係が違えば、弔辞も違います。共有していない子ども時代ではなく、自分を家族だと感じさせてくれた日に寄りかかってください。実のお子さんの弔辞より短くして、少なくとも一行は、会場にではなく、ご自分の配偶者に向けて話してください。
母がふたりいました。どちらのことを書けばいいですか。今日お送りする方のことを書いてください。そして、ご自分が実際に使っていた呼び方を、声に出してください。お母さん、下の名前、家族にしか通じない呼び名、どれでも構いません。継母も、育ててくださった方も、ほかのどんな母とも同じように送ります。ひとつの情景と、本当にあった数時間と、その人が言っていた言葉です。
原稿を書くべきですか、メモで話すべきですか。全文を書いて、それを読んでください。その場で話すのはすばらしい計画ですが、顔を上げて棺が目に入る瞬間まで、の話です。印刷した紙は、そのとき手がありがたく思うものです。
Every person has a legacy®
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