
兄や姉、弟や妹への弔辞を頼まれたら、まずこのページにある、五つの部分でできたシンプルなテンプレートから始めてください。そのうえで、同じ型で書いた六篇の例文から、使えるところを借りてください。白紙に向かう必要はありません。必要なのは、あの車の後部座席です。誰が窓側に座れたか、先にちょっかいを出したのはどちらか、長いドライブの退屈しのぎに、どんな遊びをしたか。葬儀に集まる人のうち、あの車に乗っていた人はほとんどいません。そしてご両親がご健在なら、話しながら、ご両親にも目を配ることになるかもしれません。
以下に、葬儀で読む弔辞を六篇、すべて全文で載せます。それぞれのあとに、なぜその形が効くのかを短く添えました。長い闘病のあとに、妹が兄を送る一篇。突然の別れのあとに、兄が妹を送る一篇。七十代後半の女性が、一生をともにした姉を送る一篇。長く依存症を抱えていた兄を、弟が送る一篇。疎遠になっていた兄を、妹が送る一篇。そして、話すことのできない両親に代わって、きょうだいが話す一篇です。六篇とも同じ五つの部分でできていますから、同じようにして、ご自分の一篇を組み立てることができます。
兄弟姉妹にしか言えないこと
たいていの人にとって、兄弟姉妹は、人生でいちばん長く続く間柄です。下の子にとっては、最初の記憶よりも前から始まっていて、本来なら、両親を見送ったあとも長く続いていくはずのものでした。それを数分間に収めるのは、大変なことです。そしてこの弔辞には、ほかのどの弔辞とも違うところが四つあります。
子ども時代を預かっているのは、あなたです。兄弟姉妹は、あなたの子ども時代の内側で暮らした、ごく数少ない人のひとりでした。同じ家、同じ決まりごと、同じ食卓。その一部は今、あなたひとりの記憶になりました。葬儀に集まる人の中で、その話ができる人はほとんどいません。
最前列に、ご両親が座っているかもしれません。ご健在なら、ご両親は、わが子を見送ろうとしています。あなたの言う一文一文は、まずご両親に届きます。友人どうしなら笑いの起きる十代の夜遊びの話も、お母さんの前では、まったく違って聞こえることがあります。一行ずつ読み返して、それをお母さんの顔を見ながら言えるかどうか、自分に聞いてみてください。
張り合ったことも、本当のことの一部です。会場のほとんどの人は、あなたたちがけんかをしていたことを知っているか、察しています。お風呂の順番、テレビのチャンネル、どちらの番だったか。それを全部はぶいてしまうと、残りの話まで信じてもらいにくくなります。けんかの話をひとつ、優しく話してください。できれば、自分が負けたけんかを選んで。
悲しみながら、ほかの皆の世話もしています。電話をかけ、両親のそばに付き添い、式の音楽を選び、玄関で弔問の方を迎える。それを引き受けるのは、兄弟姉妹であることが多いものです。自分の悲しみには、夜の残りの時間しか回ってきません。それは自然なことで、この弔辞がなかなか書き出せない理由のひとつでもあります。同じ一週間のうちに、家族でいちばんしっかりした人と、家族でいちばん文章のうまい人の両方になる必要はありません。
兄・姉・弟・妹への弔辞に使える、シンプルなテンプレート
和也さん、彩さん、節子さん、誠さん、浩之さん、大輔さんも、その人たちのために話すきょうだいも、実在しません。六篇は、テンプレートが実際にどう働くかを見ていただくために、このページのために書いたものです。ですから、借りるのは順番だけにしてください。坂道や、年越しそばのつゆまでは借りずに。
兄弟姉妹への弔辞は、五つの部分でできたシンプルなテンプレートに沿って書けます。以下の六篇も、すべてこの型でできています。今夜のうちに埋められます。
- 書き出し。二人で過ごした場所かできごとをひとつ。つらい事実があるなら、その事実を飾らずに。
- 一緒に過ごした子ども時代。二人とも大人になる前の話を、ひとつかふたつ。
- どんな人になったか。大人になってからのその人を、具体的な例ひとつかふたつで。
- あなただけが知っていたこと。会場の誰も聞いたことのない話か、聞いていても、誰も結びつけて考えたことのない話。
- 最後の一行。会場の人にしてほしいことをひとつ、これから自分がすることをひとつ、あるいは、ただ「ありがとう」と。
最初の一篇は、このテンプレートを次のように埋めています。
- 書き出しは、車庫の裏の坂道。
- 一緒に過ごした子ども時代は、ポストまでの競走。
- どんな人になったかは、ひばりが丘学園の数学の先生。
- 妹だけが知っていたことは、あのノート。
- 最後の一行では、会場の人に、誰かのそばを歩いてほしいと頼みます。
選ぶときは、まず、誰が誰のために、なぜ話すのかで選び、それから長さで選んでください。どの一篇も、名前を入れ替えれば、立場を逆にしても使えます。闘病の一篇は、がんで亡くなった姉や妹のために。突然の別れの一篇は、兄や弟のために。ゆっくり、一定の速さで、一分あたり300字ほどで読むと、以下の六篇はどれも三分から四分になります。カトリックの葬儀ミサでは、故人をしのぶ言葉は終わり近くに置かれるのがふつうで、司祭の許可が必要です。長さに制限を設けたり、原稿を見せてほしいと言ったりする教会もあります。早めに教会に相談してください。長めのスピーチは、通夜や、式のあとの会食の席でなら話せます。日本の葬儀では、兄弟姉妹が人前に立つのは、親族代表として会葬へのお礼を述べる挨拶であることが多いものです。思い出を語る時間がほしいときは、お別れの言葉として時間をとってもらえるかどうか、葬儀社に早めに相談してください。
白紙から書く方法をひととおり知りたい方は、弔辞の書き方のガイドで、順を追って説明しています。親のための弔辞なら、母への弔辞の例文と父への弔辞の例文を、それぞれ別のページにまとめています。
がんを患っていた兄へ、妹からの弔辞
およそ1100字。ゆっくり読んで、三分半ほどです。
兄の和也は、私に自転車の乗り方を教えてくれました。私が六つ、兄が十一の夏、けやき通りの車庫の裏の坂道で。兄は荷台をつかんで後ろを走りながら、「つかまえてるぞ、つかまえてるぞ」と坂の下までずっと叫んでいました。下で電柱にしがみつき、お礼を言おうと振り返ると、兄はまだ坂の上にいて、両手をポケットに入れていました。最初のマンホールで、もう手を離していたのです。
その日は夕ごはんまで口をききませんでした。兄は言いました。「おれがつかまえてる必要はなかったんだよ。つかまえてるって思えれば、それでよかったんだ」。母に言いつけると、母は、それはとても賢い言葉ね、と言い、兄はそれから一週間、得意げで手がつけられませんでした。
それが和也という人でした。半分は知恵、半分はかっこつけ。どちらの半分が出てくるのか、いつも分かりませんでした。
あの夏から、兄は私を「電柱」と呼びました。卒業式でも「電柱」。私の結婚式のスピーチでも、招待客百二十人の前で「電柱」。私たちは何年も、毎日、門からポストまで競走をして、兄は勝ち負けをノートにつけていました。十二歳ごろ私が勝ちはじめると、ノートは消えました。そのノートを、兄は五月に病院で返してくれました。私が実家に帰るたびに二人で競走して、その勝ち負けを、ずっとつけていたのです。私の四十二勝の勝ち越しで、私が勝った回の横には、ひとつ残らず同じ言葉が書いてありました。「下り坂」。
兄は、あの少年から想像できるとおりの大人になりました。ひばりが丘学園で二十六年、数学を教えました。方程式を面白くしてしまう先生で、教室のいちばん後ろに座った生徒の名前を、ひとり残らず覚えていました。自分が、どの教室でもいちばん後ろの子だったからです。
最後の三年、兄はがんを患っていました。待合室で宿題の丸つけをしました。看護師さん全員にあだ名をつけました。最後の日の午後も、とても小さな声で私を「電柱」と呼びました。兄には兄の意地がありましたから。
最後の数か月は、私が兄のそばを歩く番でした。病院の廊下を、兄の家の玄関の三段の階段を、八月には海を見に防波堤の上を。私は兄の腕を取って「つかまえてるよ」と言い、そのたびに兄は「うそつけ」と言って、二人で笑いました。今度は私が手を離さないと、二人とも分かっていたからです。
和也のために何かひとつしてくださるなら、足もとがふらついている誰かを見つけてください。息子さん、お隣の方、ひばりが丘学園の新しい先生。その人のそばを歩いて、「つかまえてるよ」と言ってあげてください。そして兄とは違って、本当に手を離さないでください。
お兄ちゃん、四十二勝の勝ち越しだよ。全部が下り坂だったわけじゃないからね。
坂道でのある午後が、弔辞全体を運んでいます。そしてその午後は、何度も戻ってきます。あだ名になり、ノートになり、最後には向きを変えた「つかまえてるよ」という言葉になって。病気には飾らない一文だけを与えて、すぐにその人自身の話に移っています。それが会場に、肩の力を抜いていいと伝えます。そして、からかわれた分は、最後の一行で、優しくからかい返しています。
突然旅立った妹へ、兄から
およそ1100字、三分半ほど。死因には触れていないので、何があった場合でも使えます。
彩の兄です。私は彩より四つ年上で、三十四年間、この家での自分の役目は、妹と、妹を傷つけるかもしれないあらゆるもののあいだに立つことだと信じてきました。私がここに立つのは、もっとずっと先のことで、誰か年を取った人のためのはずでした。順番が違います。
私は最初から、この役目を本気で引き受けていました。六年間、毎朝、妹を学校まで送りました。歩道の車道側を歩いて。男は車道側を歩くものだと父が言ったからで、九つの私は、そういう男になりたかったのです。山下さんちの犬の前にも立ちはだかりました。小さくて年寄りで、一度も人をかんだことのない犬でしたが、二人ともそれを知りませんでした。妹が十五のときには、初めてのボーイフレンドが妹を門まで送ってくるのが聞こえるまで、暗い階段に座っていました。
妹には、そのどれも必要ありませんでした。妹は、私の知るいちばん頼りになる人に育ちました。三十一歳で、自分の動物病院を開いていました。この町の半分の人が、段ボール箱に入れたおびえた猫を、妹に預けたことがあるはずです。かつて山下さんちの犬から私の後ろに隠れていた女の子は、六十キロの犬でも、眉をひとつ上げるだけで落ち着かせることができました。
火曜日から、たくさんの方が、私の知らなかったことを話してくださいます。おかげで、この八年の見え方が変わりました。
妹の友人の千夏さんが教えてくれました。八年前に私が仕事を失ったとき、彩は毎週日曜の夜に両親に電話をかけて、兄さんは大丈夫だから、と伝えていたそうです。二人が心配しないように。そして毎週月曜の夜には私に電話をかけて、本当に大丈夫かを確かめていました。あの月曜の電話は、妹が兄を頼ってかけてくるのだと思っていました。違ったのです。
千夏さんは、もうひとつ教えてくれました。台所の奥で、笑いながら。大人になってから、彩と私が二人で歩くとき、彩はいつも、そっと私を歩道の内側に寄せていたそうです。毎回です。私は一度も気づきませんでした。何年ものあいだ、妹のほうが、私のために車道側を歩いていたのです。
お父さん、お母さん。彩は、自分のいちばんいいところは二人からもらったんだと、何度も言っていました。そのとおりです。今日、それを私の口から伝えたかったのです。
こうして、三十八になって、守られていたのは自分のほうだったと知りました。皆さんの中にも、そういう人がいて、やはり気づいていない方がいらっしゃると思います。私のようなかたちで知るまで、待たないでください。誰が自分のために車道側を歩いてくれていたのかを見つけて、その人に聞こえるうちに、ありがとうと伝えてください。
彩。これからは、兄ちゃんが車道側を歩くよ。みんなのぶんまで。
この弔辞は、あえて最後まで死について説明しません。原因を語らず、何も問いかけず、理由を示そうともしません。ですから、何があった場合でも同じ言葉が使えますし、会場の誰も、三十四年ではなく、たった一日のことを考えさせられずに済みます。守ってきたつもりの兄が、実は守られていたと知る。その転換が、順番の狂った別れを、会場の人が持ち帰れるものに変えています。両親への一言をわざと短くしているのは、二人を話の主役にすることなく、大切にしまっておけるものを手渡すためです。
長い人生をともにした姉へ、妹から
およそ1200字、三分半から四分。七十八歳の女性が、姉のために。
姉の節子は三つ年上で、そのことを私に一度も忘れさせてくれませんでした。私が七つのときも、先月もです。私が七十八、姉が八十一で、姉は看護師さんに私を「うちの赤ちゃん」と紹介したのです。
私たちは、はじめから正反対でした。姉はきれい好きで、私はそうではありませんでした。姉は歌が上手で、私は昭和三十二年に合唱の先生から、とても優しく、口だけ動かして声は出さないでね、と頼まれました。姉は一生をこの町の同じ通りで、同じお肉屋さんに通って暮らしました。私は十九で東京に出て、六十で戻りました。駅に迎えに来た姉は、「まあ、ずいぶん時間がかかったこと」と言いました。姉は物静かな人と、私はにぎやかな人と結婚して、お互いに相手がとんでもない間違いをしたと思っていて、二人とも間違っていました。
そして姉は、七十八年間、私のいちばんの親友でした。私たちくらいの年の姉妹が仲よくしているのは、そうするしかないからだと思われがちです。私たちが仲よくしていたのは、姉が、私の知るいちばん話していて飽きない人だったからです。私が戻って、二人ともひとり身になってからは、ほとんど毎週、川沿いの道を橋まで歩いて往復しました。行きも帰りも言い合いをして、閉まるのが早すぎる喫茶店で紅茶をポットで頼んで、その閉店時間のことでも言い合いました。
私がどうしても思い返してしまうのは、このことです。両親の家を覚えている人は、私のほかには姉しかいませんでした。石切町三十一番地。昭和四十九年に取り壊されて、今日ここにいる方で、あの家に上がったことのある方は、ほとんどいません。玄関の引き戸は、雨の日には引っかかって、少し持ち上げながら引かないと開きませんでした。母は家賃のお金を、ふたに船の絵がある茶筒にしまっていました。父の座椅子は窓際にあって、誰も座ってはいけない決まりでした。姉は父が出かけるたびにそこに座って、そのたびに見つかりました。座布団を元に戻すのを、毎回忘れたからです。
二週間前、緩和ケア病棟で目を覚ました姉が、台所は何色だったかしら、と聞きました。私は、緑よ、と言いました。姉は言いました。「青よ。あんたは何にも気がつかないんだから」。それから二十分、私たちは言い合いました。楽しそうに、小さな声で。五十年も前になくなった台所のことで言い合う、おばあさんが二人。あの言い合いができるのは、この世で私たち二人だけでした。
今は、ひとりです。ひとり残されて覚えている側になるとはどういうことか、考えていました。たぶん、自分があの家になるということなのだと思います。姉と私にしか答えられなかった問いが、これからは私に届きます。私はひとりで答えますし、間違える日もあるでしょう。ですから、この冬、全部書き留めておくことにしました。引き戸、茶筒、座椅子、座布団。聞いてくださる方には、どなたにでもお話しします。
台所は緑だったのよ、姉さん。ごめんなさいね。緑だったの。
正反対だったことは、姉妹の弔辞へのいちばん入りやすい入口です。会場の誰もが、二人が何十年も意見の合わないところを見てきたからです。残りは、家が引き受けてくれます。この年齢になると、ひとつの家の暮らしをまるごと覚えているのは、きょうだいだけ、ということがよくあります。その家の小さな品を三つ持ち出すだけで、会場は、一度も行ったことのない場所へ連れていかれます。そして最後を昔の言い合いで締めくくることで、姉の声が、最後にもう一度だけ、会場に響きます。

長く依存症を抱えていた兄へ
およそ1150字、四分弱。何に依存していたかにも、どのように亡くなったかにも触れていません。
兄の誠は、大人になってからのほとんどを、依存症を抱えて暮らしていました。皆さんご存じのことですから、最初に申し上げて、それで終わりにします。それは兄の人生の一部でした。けれども兄そのものではありませんでしたし、今日私がお話ししたいのも、そのことではありません。
まず、家族と、そばにいてくれた友人の皆さんに。大変でした。真夜中の電話がありました。兄がどの町にいるのかも分からない年がありました。そのあいだずっと、母は兄の部屋を、いつ帰ってきてもいいように整えていました。兄を愛することは、皆さん一人ひとりにとって、決して楽なことではありませんでした。それでも皆さんは、二十年間、兄から離れずにいてくださいました。こういうことで表彰してくれる人はいませんから、ここで声に出して言います。皆さんは、やり遂げてくださいました。兄も、それを分かっていました。
さて、兄の話です。兄は料理ができました。上手に、ではありません。見事に、です。よその家に上がりこんで戸棚を全部開け、玉ねぎ半分とトマト缶とごはん少しで、その家の人の献立よりおいしい夕ごはんを作ってしまう。祖母の台所で覚えて、生涯、レシピを使ったことがありませんでした。
子どものころ、母の仕事が遅い夜は、兄が夕ごはんを作ってくれました。一年間、毎晩、目玉焼き。十一歳の兄に作れるのは卵だけだったからです。兄は私の分をお皿にのせ、折りたたんだキッチンペーパーを横に添えて、ウェイターのように私を「お客さま」と呼びました。私は七つでした。あれほど丁重にもてなされたことは、それ以来、どんなレストランでもありません。
二十年間、大晦日の年越しそばのつゆは、兄が作りました。昼に来る年もあれば、夕方の四時に来る年もありました。一度か二度は、来ない年もありました。そういう年は、瓶のめんつゆで十分だと言い合って、誰も信じていませんでした。兄が玄関を入ってくると、家じゅうの空気が変わりました。上着を脱いで、袖をまくって、こう言うのです。「よし。これを台無しにしてたのは誰だ?」
最後の四年間、兄は桜町の公民館で、来た人なら誰にでも朝ごはんを作っていました。そのうちの何人かの方が、今日ここに来てくださっています。今朝、入口で、おひとりが教えてくださいました。目を見て卵の焼き加減を聞いてくれる人など、長いあいだいなかった。兄が、久しぶりのその人だった、と。それこそが、兄です。
兄の人生が悲劇だったとも、きれいな結末があったとも、申し上げるつもりはありません。あれは兄の人生でした。大変で、そして、兄がごはんを作ってあげた人たちで、いっぱいの人生でした。
今年の大晦日は、家族の誰かがつゆを作らなければなりません。作るのは私です。きっと味は違うでしょう。そして誰かが鍋をのぞきこんで「よし。これを台無しにしてたのは誰だ?」と言うでしょう。そしてその一瞬だけ、そこに兄がいるはずです。
つらい事実を尊厳とともに抱えるために、三つの選択がされています。まず、早いうちに一度だけ、病名ではなく人を主語にした言葉で名指しすること。「依存症を抱えて暮らしていた」というように。次に、家族が疲れ果てていたことに、ひとつの段落をまるごと与えること。いちばん多くを背負った人たちが、誰も裁かれることなく、それを認めてもらえるように。そして残りのすべてを、その人に使うこと。その手、その台所、ごはんを作ってあげた人たち。つらかった年月も、弔辞の中にちゃんとあります。あのつゆの中に、責める言葉をひとつも使わずに。
疎遠になっていたとき
およそ1000字、三分あまり。何年もほとんど口をきいていなかった兄のために、妹が。
兄の浩之とは、十一年間、まともに話をしていませんでした。大げんかがあったわけではありません。どちらかが出なかった結婚式があって、別の町への引っ越しがあって、そのあとは長い沈黙で、二人とも、それをどう終わらせればいいのか分からなかったのです。それで全部です。このことに触れるのは、これが最後です。
そのかわりに私の手もとにあるのは、少年だったころの兄です。それだけで、驚くほどたくさんあるのです。
兄は私より二つ年上でした。私が五つのとき、兄は祖父母の家の庭の奥に、古い戸板と木のパレット二枚と緑のテーブルクロスで、秘密基地を作りました。女子は立ち入り禁止、という決まりを作りました。それから二つ目の決まりを作りました。私は見張り番だから、女子には数えない。私は六回の夏、見張り番を務めました。仕事は、おじいちゃんが来ないか見張ることと、おやつの係でした。
八つで水ぼうそうになったとき、母は兄を私の部屋に入れてくれませんでした。それで兄はドアの外に座って、『宝島』を最初から最後まで読んでくれました。登場人物の声を全部、オウムまで演じ分けて。九日かかりました。兄はそのことを、友だちには一度も話しませんでした。
十のとき、私はサッカーボールで、おじいちゃんの家の縁側のガラス戸を割りました。兄は、自分が蹴ったと言いました。兄は一か月おこづかいを止められて、そのことを私に持ち出したことは、一度もありませんでした。けんかのときでさえ。
大人になってからの兄のことは、ここにいる多くの方のほうが、私よりよくご存じです。ですから、この数日、皆さんのお話に耳を傾けてきました。草野球のチームメイトの方が教えてくださいました。三十年間、試合のあとで最後まで残って、道具を片づけ、倉庫の鍵を閉めていたのは、いつも兄だったそうです。ほかの皆が早く家に帰れるように。
その話を聞いて、すぐに分かりました。私の部屋のドアの外に座っていた、あの少年が大人になった姿です。
わが家には、けんかのときの決まりがありました。先に小指を出したほうが謝る側で、出されたほうは、その小指に自分の小指をからめなければいけない。それが掟でした。兄はいつも、先に小指を出しました。十五年間、毎回です。私が悪いときでさえ。そして、たいていは私が悪かったのです。私が先に出したことは、一度もありませんでした。
だから、お兄ちゃん。はい、小指。今度は、私が先です。
疎遠だったことには、冒頭の数文だけが使われていて、誰も責めていません。そこから先は、少年だったころの兄の話です。そのおかげで、会場は安心して耳を傾けられます。大人になってからの年月が手薄なときは、証拠は子ども時代にあります。チームメイトから聞いたひとつの話は、少年と大人が同じ人だったことを示すためだけに使われています。結びは、話し手自身が今でもできる、小さな行いがひとつ。先に、小指を出すことです。
話せない両親に代わって話すとき
およそ1000字、三分あまり。両親に代わって、姉が弟のために。
久美子と申します。大輔は、私の弟でした。今朝は、最前列に座っている両親に代わってお話しします。今日、人前に立つことは、両親にはあまりに重すぎます。それで、私に頼んでくれました。ですから、これからの数分間、私は両親の声です。私自身として話すのは、ほんの少しだけです。
何よりも先に。由美子さん、美月ちゃん、翔太くん。大輔は、まずあなたたちのものでした。今日私がお話しすることで、あなたたちから大輔を少しでも取り上げるつもりはありません。
父には、私が物心ついたころから話している話があります。今日も、きっと誰かに話してほしいはずです。子どもたちの中で父に口げんかで勝ったのは大輔だけで、そのとき大輔は九つでした。コウモリは鳥かどうか、という言い合いです。父としては、あれが最初で最後だったと、はっきりさせておきたいそうです。大輔のほうは、三十九年間、毎年お正月になると、あのあとも勝ったと言い張っていました。
母はいつも、大輔はいちばん手のかからない赤ちゃんで、知っている中でいちばん優しい人だ、と言います。
私に付け加えられるのは、この十年、大輔が両親にとってどんな存在だったかです。私は、それを見てきましたから。大輔は両親の家から十分ほどのところに住んでいて、両親が何ひとつ頼まずに済むようにしていました。毎月第一土曜日には、生け垣を刈りました。母の好きなおせんべいと、それをしまってある棚を知っていて、メモも持たずに、帰り道に両親の買い物をしてくれました。二月に雪が降ったときは、二人ともまだカーテンを開けていない朝の七時に、スコップを持って玄関の前にいました。そして毎週日曜日には、飲みたくもないお茶を一杯飲んでいきました。父がニュースの話をしたがったからで、大輔は、それを最初から最後まで聞いていました。
小さいころ、大輔はどこへでも私についてきて、私は文句ばかり言っていました。バス停にも、友だちの家にもついてきました。一度は歯医者さんまでついてきて、私と一緒に帰るために、待合室で一時間待っていました。今、ついてきてもらえるなら、何を差し出してもかまいません。
お父さん、お母さん。この会場にいる皆さんは、二人が育てた人のために来てくださったのです。それは、お父さんとお母さんがしてきたことです。
両親に代わって、そして私からも。大輔のために来てくださって、ありがとうございます。今月いただいたお手紙や、差し入れのお料理や、お電話にも、心からお礼を申し上げます。
この役目を頼まれたのなら、文章よりも大切なことがいくつかあります。きょうだいに配偶者やパートナー、お子さんがいたなら、葬儀のことを決めるのは、ふつうその人たちが先です。思い出話は、話す前にその人たちに確かめておいてください。そして久美子さんのように、早いうちにその人たちの名前を口にしてください。ご両親には、会場にいちばん知ってほしいことと、言ってはいけないことを聞いてください。どの話が会場の誰かを傷つけるかを、親はよく知っているものです。当日は、ご両親から顔の見える場所に立ってください。日本の式なら、最後のお礼の言葉まで含めたこの一篇は、親族代表の挨拶の役目も兼ねることになります。
兄と姉を送った、二つの有名な弔辞に学ぶ
きょうだいが葬儀で語った、有名な弔辞が二つあります。どちらも、兄弟姉妹にしかできないことを見せてくれます。
第9代スペンサー伯爵チャールズ・スペンサーは、1997年9月6日、ウェストミンスター寺院で行われた姉ダイアナの葬儀で、弔辞を述べました。ダイアナがパリの自動車事故で亡くなってから、六日後のことです。スペンサーはダイアナの弟で、二人は、きょうだいの中でいちばん下の二人でした。世間の知る女性と並べて、スペンサーは、私人としての姉を家族の側に取り戻しました。子ども時代の姉、週末ごとに両親それぞれの家を行き来した列車の旅、そして最後に姉に会った、ロンドンでの姉の誕生日。スペンサーは「赤ん坊の私の母親がわりをしてくれた姉」を思い起こしました。そして、姉を聖人に祭り上げないようにという戒めも口にしました。
スペンサー本人によれば、最初の原稿は、姉が子どものころ得意だったことを並べた、ありきたりな一覧だったそうです。スペンサーはそれを脇に置き、自分の役目は姉の代わりに語ることだと決めて、実際に読んだ弔辞を一時間半ほどで書き上げました。2026年9月には、姉についての回想録(原題 Swan Song: Diana, My Sister)を出版しています。
スティーブ・ジョブズは、2011年10月5日に亡くなりました。10月16日、小説家のモナ・シンプソンが、スタンフォード大学のメモリアル・チャーチで行われた追悼式で、兄への弔辞を述べました。シンプソンはひとりっ子として育ち、25歳になるまで兄に会ったことがありませんでした。ですから、兄と分かち合った子ども時代という材料は、ありませんでした。シンプソンは兄の才能を讃えるかわりに、肝臓移植を受けたあとの兄の姿を語りました。椅子を押しながら病院の廊下を歩き、歩数を数え、毎日少しずつ遠くまで進んでいく兄です。ニューヨーク・タイムズ紙は2011年10月30日、その全文を「スティーブ・ジョブズへの妹の弔辞」(A Sister's Eulogy for Steve Jobs)として掲載しました。
きょうだいは、会場のほかの人が一度も会ったことのない、私人としてのその人を語ることができます。そして、業績を並べた最初の原稿は、脇に置いてしまってかまいません。廊下の椅子のような、小さく正確なひとつの細部は、どれほどの賛辞よりも重く響きます。そして、兄弟姉妹に出会ったのが人生の後半だったとしても、何年も連絡が途絶えていたとしても、それでも語れることは十分にあると、シンプソンの弔辞は教えてくれます。
自分たちきょうだいの話を見つける

兄弟姉妹だけが持っている材料から始めてください。どの一篇を使うか決める前に、次の問いに答えてみましょう。
- どこで寝て、どこに座っていましたか。二人で使った子ども部屋、二段ベッド、長いドライブ。きょうだいの話の多くは、そのどこかから始まります。
- どの言い争いが、家族の笑い話になりましたか。ご両親が今でも話すけんかと、そこから生まれたあだ名。書き出しには、それがいちばん向いていることがよくあります。会場の人が、もう結末を知っているからです。
- ご両親について、二人だけが知っていたことは何ですか。父が車の中でどんなふうに歌っていたか、母が怒ったときに何と言ったか。それは二人だけが持っていた材料で、弔辞の中に入れるべきものです。
- どちらかがしたことで、もう一方が叱られたのは何ですか。割れた窓、なくなったお菓子。きょうだいはこういう貸し借りを一生覚えていますし、昔の借りが人前で返されるのを、会場は楽しんで聞いてくれます。
- その人が、いちばん話してほしくないことは何ですか。そのうえで、それでも話していいほど愛情のこもった話かどうかを、正直に判断してください。その人の子どもたちの前で恥をかかせることになるなら、はぶいてください。
きょうだいならではの手順が、あと二つあります。ほかにも兄弟姉妹がいるなら、当日までに、話す思い出をすり合わせておいてください。同じ家で育っても、一人ひとりが育った家族は少しずつ違います。それを葬儀の場で知るのは、よくありません。それから、あなたが話しているあいだ、誰がご両親の隣に座るかを決めておいてください。前に立ったあなたが、ひとりきりでご両親を見守らずに済むように。書き上げたら、日本語の弔辞ならではの確認もしておきましょう。忌み言葉です。「重ね重ね」「たびたび」「ますます」「くれぐれも」のような重ね言葉や、「再び」「続いて」は、不幸が重なることや続くことを思わせるとして、弔辞では避けるのが習わしです。「死ぬ」「急死」は「亡くなる」「旅立つ」「急逝」に、「生きていたころ」は「元気だったころ」に言い換えます。
聞こえるうちに、伝えておく
彩さんのお兄さんが月曜の電話のことを知ったのは、彩さんが亡くなったあと、台所で、彩さんの友人からでした。今も元気な兄弟姉妹がいるなら、あなたがその人をどう思っているかを、あなたの口から聞いてもらうことができます。何かのきっかけを待つ必要はありません。子どものころの話をひとつ、今、話してみてください。相手が「それは違う」と言い返せるうちに。理由もなくきょうだいにこういうことを言うのは、照れくさいものです。それでも、言ってください。二人とも覚えている、ある夏についての正直な数行があれば、それで十分です。相手は、それをずっと大切にするはずです。
Goodbye Appでは、今も元気なきょうだいに手紙を書いて、あなたの声の録音をひとつ添え、メールで届く日と時刻を選べます。今日のうちでも、相手の誕生日でも、最長で三十年先でもかまいません。送られるまでは非公開で、ウェブでもAndroidでも無料で使えます。声を録音したことがなければ、家族のために自分の声を残す方法で、かんたんな手順を紹介しています。
あなた自身が弔辞を読むのなら、前もって、読み上げる声を録音しておくこともできます。代わりに読む役で控えてくれる人が、あなたの読む速さを聞いておけるように。
よくある質問
兄弟姉妹への弔辞は、どのくらいの長さがいいですか。ご両親やほかのきょうだいも話すなら、二分から三分にとどめてください。あなたの弔辞が中心になるなら、三分から五分、ゆっくり読んでおよそ900字から1500字です。上の六篇は、どれも三分から四分です。一分で読める版と、その背後にある計算については、短い弔辞の例文をご覧ください。
兄がどう亡くなったかを、話さなければいけませんか。いいえ。兄や弟がどのように亡くなったかを、弔辞で話す必要はありません。家族が原因を口にすることに同意しているなら、一度だけ、飾らずに、細かいことには触れずに言って、それからその人の人生の話に戻ってください。上の二篇目は、突然の別れを、何の説明もせずに語っています。
疎遠だった場合は、何と言えばいいですか。冒頭近くで、誰も責めずに、正直な一文を。そのあとは、ともに過ごした子ども時代の話をしてください。距離ができた理由を説明したり、自分を弁護したり、誰のせいだったかをほのめかしたりしないでください。知っておくべき人は、もう知っています。五篇目は、まさにこの場合のために書いたものです。
両親が話せません。どうすれば両親に代わって話せますか。会場にいちばん知ってほしいことと、言ってはいけないことをご両親に聞いて、ご両親から見える場所に立ってください。思い出話は、先にきょうだいの配偶者やパートナー、お子さんに確かめておきます。六篇目が、その形を示しています。
義理の兄弟姉妹にも使えますか。はい。その人がどのようにして家族になったかを一文で言い、五篇目の、チームメイトの話が大人になってからの年月を埋めている段落を借りてください。そして最後の一行は、パートナーを失ったご自分のきょうだいに向けてください。
姉や妹の葬儀で、笑いが起きるような話をしてもいいのでしょうか。はい。本人が面白い人だったなら、あるいは、二人のやりとりが面白かったなら。からかいは、きょうだいが会場に持ち込めるものの中でも、とりわけ嘘のないもののひとつです。本人も一緒に笑ったはずの話で、存命の誰かを笑いの的にしないかぎりは。お別れの会のスピーチ例文には、笑いが起きるように組み立てた一篇と、ユーモアがふさわしくない場面についての説明があります。
途中で声が出なくなったら、どうすればいいですか。そのときは、ほかの人が最後まで読めばいいのです。それで大丈夫です。式の前に、代わりに読む人と合図を決めておいてください。ほかのきょうだいに頼むことも多いものです。詳しくは、泣かずに弔辞を読む方法のガイドで説明しています。
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